張聞天小伝
無産階級革命家、文学者である。字は思美、別名洛甫、上海川沙の人。ペンネームは、三愛、平江、于懐、張普、洛夫、洛甫、趙天、羅夫、羅俘、思美を用いた。1917年南京河海工程専門学校に学ぶ。五四運動勃発後は、反帝愛国闘争に積極的に参加し、『時事新報』副刊「学灯」に文学作品を発表、同年少年中国学会に参加。1920年7月に沈澤民と日本に行き日本語を学ぶ。翌年1月上海に戻り、中華書局の編集員を務めるとともに、文学研究会に参加、積極的に外国文学の翻訳紹介の仕事に従事し、外国文学の名著の紹介を中国社会の現実と関連付けて紹介し、民衆を覚醒させ、人生に執着し、人生を発展させようとする思想を表現した。1922年アメリカのサンフランシスコへ行き、働きながら学び、同時に多くの外国の演劇や長編小説を翻訳した。1924年中国にもどり、中華書局の編集員をしつつ、長編小説『旅途』および劇本『青春的夢』を発表した。『旅途』は、五四退潮期の青年知識分子が苦悶と彷徨から立ち上がり、中国の改造のために雄々しく戦う過程を反映している。『青春的夢』やその他の短編小説、散文は、作者の旧中国、旧文化に対する批判的態度を強烈に反映している。1925年に中国共産党に参加、同年、ソ連に行き、モスクワ中山大学、紅色教授学院で学習及び工作を行い、コミンテルン東方部で働いた。1930年に帰国。中共中央宣伝部部長、中央政治局常務委員、ソビエト区中央局宣伝部部長、中央工農民主政府主席などの職につく。1934年長征に参加。1935年、遵義会議において、中共中央政治局常務委員に選出される。1938年以後は中共中央書記処書記兼中央宣伝部部長、西北工作委員会主席、マルクスレーニン学院院長を務める。1946年以後は、中共合江省委員会書記、遼寧省委員会書記を務める。1951年には中国駐ソ連大使、1955年には帰国し、外交部第一副部長を務めた。1959年の中共第八回中央委員会全国大会後は、中国科学院経済研究所特約研究員をつとめ、政治経済学方面の理論的研究に従事した。
(『中国現代文学詞典』1990.12)
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