師陀小伝:
本名王長簡、1946年以前は筆名に芦焚を用いた。河南杞県の人。開封で中学を卒業、学生時代は同級生たちと雑誌を発行したことがある。
1931年高級中学卒業後、北平に生活の糧を求める。9・18満洲事変が発生すると、即、反帝大同盟に参加、救亡宣伝工作を行なう。最初の小説「請願正篇」は、学生の抗日愛国の熱情を描き、『北斗』に発表。1932年汪金丁らと文学雑誌『尖鋭』を創刊。引き続き、もっぱら創作に従事した。最初の短篇小説集『谷』は、北方農村の衰微を切実に表現し、場景描写にすぐれ、哀しみの抒情的気質が豊かであった。1937年芸術的風格が独特であることにより、『大公報』文芸奨励金を得た。前期の散文は、うらがなしく詩的趣があり、小説同様、京派の風味を帯びている。
1936年秋、北平から上海に移動、ほどなく抗日戦争が勃発、長期にわたり、日本占領下の上海に蟄居。1941年から1947年まで、ソ連上海ラジオ局文学編集者を勤める。大部分この時期に執筆された『果園城記』諸篇は、もの悲しくも温かい回想の筆調で、ある町の歴史とさまざまな取るに足りない人物たちの運命を描いている。この町は、中国社会の停頓と後退の縮図となっている。彼には他に長篇小説『結婚』などがあり、農村の没落を描くところから一歩進んで戦争時の都市の狂乱を暴露するものである。彼はもともと抒情的小説家だが、社会風刺に向かう時、諷刺文学に伝奇的色彩と寓意性を加味した。(翻訳途中)
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