傅雷小伝:
本名傅怒安、字は怒庵。上海南滙の生まれ。幼少から家庭で古文を学ぶ。1924年上海大同大学付属中学に合格、1926年上海持志大学に入学。1927年12月よりフランス留学、パリ大学文科およびルーブル美術史学院を聴講、芸術批評を専攻した。このころドーデの短篇小説やメリメの『カルメン』の翻訳を試みる。1929年最初の翻訳作品『聖楊喬而夫的伝説』を発表した。
1931年秋、帰国。上海美専で美術史とフランス語を教授。その後、『芸術旬刊』の編集に参与し、『時事滙報』の編集長も勤めた。
青年時代は『小説世界』『北新』週刊などに短篇小説を発表し、フランス渡航の途中で書いた「法行通訊」は『貢献』半月刊に連載される。30年代後期から、次第に文学の翻訳に特化して行った。1949年以後は文学の翻訳に全精力をつぎ込み、生涯で30部あまりの明著を翻訳した。
彼は中国内外の文化に通暁し、知識は該博、美術、音楽、彫刻等にも等しく造詣が深く、文章は流暢で優美、態度は厳粛まじめで、「形ではなく精神をそれらしく」という翻訳の美学原則を硬く守り、中国における文学の翻訳事業に多大な貢献をなした。1963年春、フランスのバルザック研究会に加入し、永世会員となった。
「文化大革命」期には迫害を受け、夫人朱梅馥と自殺した。
1981年、彼の遺著『傅雷家書』が出版される。その卓越した芸術的見解と透徹した分析とが普遍的な賛辞を得ている。
(傅光明『中国現代作家大辞典』1992)
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