Hé Lìwěi
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(1954- ) |
何立偉自伝:私の名前は何立偉、男性で漢族である。 1954年湖南省長沙に生まれた。現在長沙市文聯で働いている。小学校卒業が、ちょうど「文化大革命」のときで、一日中街をうろついていた。空から降ってきたビラを争ってとったり、地面の鉄砲弾の薬莢を拾ったりして、血を見ても少しも恐くなかった。たぶん太陽がこれと同じ色をしているからだろう。 高級中学を卒業すると働きに出た。学んだのは生化学薬剤製造だったので、作業服は真っ白だった。最初に給料をもらった夜、起き上がって長々と小便をした。金をもっているのが気味悪かったのだ。 その後推薦をうけて湖南師範学院中文系に入学した。 1978年卒業後、初級中学及び高級中学で国語(語文)を教え、黒板の字をチョークできちんと書いた。恋愛をしたこともないのに、恋愛の詩を書くことを覚え、賦や新詩を書いては愁いを力説したが、まるで卵のからのように薄っぺらで内容のないものだった。 1981年にようやく自分で様になっていると思う詩作を発表しはじめる。 1983年転じて小説を書く。多くは短篇で、たまに中篇を書いて今日に至る。 自分の資質の凡庸さを知っているので、世の中に賢い人がたくさんいることを考えると、何事につけてあっさり辞めてしまおうと思うが、結局踏み切れない。じっくり考えてみると、もともと我々が色々なことをするのは、決して賢い人々のためではなく、実は大抵自分自身のためなのだ。それならそれでいい。 創作に関する2,3のこと1983年から私はいろいろな刊行物に小説と称する文章を若干発表してきた。そのなかのいくつかは、自分のことをとても好きにさせるものである。が別のいくつかは、自分に対して痛恨の思いを抱かせる。それは本当に仕方のないことなのだ。私の作品は、おそらく一人の子供が、河原で砂と泥をつかってお城を築くのに自己陶酔するようなもので、童話の世界に近いのだ。違いは砂や泥の替りに漢字を使っているというだけのことである。実験的な興味と決意を抱き、この仕事が人間の夢想と心の中に潜在的に存在する変わり易いもやもやとした情緒を表現するものだとすれば、結果の功利性よりも自分の楽しみが優先することになる。後になってこれらの文章が社会的な毀誉褒貶にさらされたことは、私にとっては意外なことであった。まるで自分が風景を創り出して自分に見せようとして、謀らずも自分自身が風景となって人々の目にさらされ、その人々が山河にあれこれと注文をつけるみたいなものなのだ。これもまた致し方のないことである。ただ誉められたり貶されたりすることによってもたらされる喜びや憂いは、自分で楽しむことほど、毎日を潤いで満たしてはくれない。まだまだこの仕事は長く続くようだが、人間は仕事自体の楽しみのなかにどっぷり漬かっていれば、それで充分のように思える。本当に充分なのだ。 私はひとえに理屈っぽくなく言葉の罠に落ち込んでいない個性に富んだ文章が好きだ。抒情的で山辺の野菊のように美しい小品文が好きだ。唐人の絶句が好きだ。音楽のように感動するが、その感動の理由がわからないような作品が好きだ。何故そのような藝術ばかりが好きなのだろうか?わからない。好きだから好きということなのだろう。理由などなく好き、というのが好きということなのだ。 中国の文壇は、一時、ある種の主義あるいは複数の主義が賑やかに流行した。しかし主義が多く語られれば、美が語られることは少なくなる。それは多少なりとも文学自身に不幸をもたらしていよう。私にはこのような情況がまだ綿々といつまで続くのかわからない。しかし私は占いについては全くわからない。 (『中国当代作家百人傳』求実出版社1989) |
主な作品「石匠留下的歌」短篇小説 『人民文学』1983.6 |
受賞作品「白色鳥」 1984年全国優秀短篇小説奨 |
邦訳「石工の歌」(石匠留下的歌)井口晃/訳 『季刊中国現代小説1』1987.4 |
作成:青野繁治 |