Hé Qífāng
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(1912-1977) |
何其芳年譜:現代詩人、散文家、文学評論家。 1912年2月5日、四川省万県に生まれる。 1929年、上海に移り、呉松中国公学予科に入学する。 1930年、北京清華大学外国文学部に入学する。 1931年、北京大学哲学部に転校。大学時代に故郷色溢れた《紅砂漠》を刊行する。 1934年、散文集《画夢録》を出版。 1935年、大学卒業後、天津中学、山東の師範学校で教職に就く。この時期、抗日救国運動の影響を受け現実闘争に参加。 1936年3月、李広田、卞之琳と共に詩集《漢園集》を出版。 1937年、抗日戦争勃発後、四川省万県、成都連合中学にて教壇に立ちながら、それぞれ、《川東文藝》、《工作雑誌》を創刊。この年、散文集《画夢録》で《大公報》文藝賞を受賞する。 1938年、延安へ移り、魯迅芸術文学院にて教員を務める。11月、賀龍部隊に付き普西北、翼中抗日解放区で一時を過ごす。 1939年、延安に戻り、魯迅芸術文学院にて文学部の主任となる。この年、小説戯劇集《刻意集》を出版。その後、中国共産党に加入する。 1939年 3月、ルポ《日本人的悲劇》を《文藝戦線》第1卷2号に、11月、《論文学上的民族形式》を《文藝戦線》第1卷5号に発表。 1941年 12月、詩《我把我当做一個兵》と《我為少男少女們歌唱》を12月8日付けの《解放日報》に発表。 1942年 5月、延安文芸雑談会に参加。この年から1947年の間、二度重慶に派遣され、中共四川省委員、宣伝部副部長、《新華日報》社長などを務める。 1945年 2月、詩集《預言》を出版。5月、詩集《夜歌》を出版。10月、評論《〈清明前後〉的現実主義》を《周報》第8期に発表。同年、散文集《星火集》を出版。 1946年11月、評論《評〈芳草天涯〉》を《中原、文藝雑誌、希望、文哨連合特刊》第1巻1期に発表。 1947年10月至12月、朱徳総司令官の秘書を務める。 1948年初、河北省平山県にて土地改革と党の整備に携わる。年末、馬列学院(高級党校)にて教師となる。 1949年 10月、詩《我們最偉大的節日》を《人民文学》創刊号に掲載。その後、《呉玉章同志的革命故事》、《星火集続編》を出版。新中国成立後、全国文連委員、全国作協理事、書記、中国科学院哲学社会科学学部党委員会委員、学部委員及び文学研究所所長を務める中、《人民文学》、《文藝報》の編集委員また、《文藝研究》、《文藝評論》の編集主幹としても活躍する。 1951年 3月、張松如と共に《陜北民歌選》を出版。 1953年 1月、文藝論文集《西苑集》を出版。 1956年、文藝論文集《関於写詩和読詩》を出版。 1958年、文藝論文集《没有批評就上能前進》、《論〈紅楼夢〉》を出版。 1959年、文藝論文集《詩歌欣賞》を出版。
1977年 7月24日、北京にて病死する。 抗日戦以前の詩は繊細かつ情緒あふれたものであったが、延安に移ると思想は一変し、現実、人民、青春、自身の思想の変化を歌いたたえるようになる。詩のスタイルは明快かつ情熱的、また文章も飾り気のないものに変わっていった。彼は詩の整った形式、バランスの取れた音調を重要視しながら探求を続けた。詩《我為少男少女們歌唱》と《我們最偉大的節日》はその代表作である。その他に、何其芳は多くの美しい散文も残している。新中国成立後、中国民族の特色をもった文学理論の分野に力を注いだ。 |
作品集・単行本『還郷日記』何其芳著 — 未名書屋 , |
研究書・参考書『何其芳研究専集』 |
邦訳『何其芳詩集』秋吉久紀夫/訳 土曜美術社 1991.1.30/\2910(本体\2825) |
作成:森 祐子 |