李斌奎

Lǐ Bīnkuí
李斌奎
り・ひんけい

(1946- )

李斌奎自伝:

私は1946年11月 西省合陽県のある農民の家に生まれた。黄河沿岸に位置する合陽県は閉鎖的な、旧習に縛られた土地であった。古からの黄河と、縦横に交差した溝と谷はこの赤茶けた土地を他の世界と隔絶していた。先祖代々農業に携わってきた人々は、社会にどのような変化が起ころうともそれらとは関りなく、伏しては土地を、仰いでは天を頼りに生活していた。土地は彼らの生命であり、先祖は彼らの神であった。衣食が満ち足りているのは農民たちの精神的な天国であり、数軒の小商いをしている家さえも、心を込めて先祖伝来の土地を守り、耕してきた。
私の祖父はまさにこのような農民のひとりであった。数年間穀物店を経営し、失敗して借金だらけとなり、あばら屋に引きこもってわずかばかりの土地を守り、耕して生きてきた。私の父方の家庭の経済状態が日を追って苦しくなっていき、先祖伝来の二つの古いヤオトン(住居)も煙に燻されて真っ黒に汚れ、あばら屋は今にも崩れてしまいそうであった。
父は兵士の苦労から逃れるため外地を放浪しており、1949年になってやっと故郷に戻り農業で身を立てるようになった。母は彼女の運命と同様に、体つきのひ弱な小柄な人で、まったく文字を知らずただ家庭を支えるため全力をつくして働くことだけを知っていた。彼女の生涯の最大の希望は私に頼ることであった。私は母のたった一人の子供であり、また生活の唯一の支えでもあった。彼女は私に人としてのあり方を教えはしたが、教育をつけることはできなかった。
だが、すこし読み書きのできた祖父が真っ黒に煤けたヤオトンの中で、私が眠りにつくまで、横たわりながら冬の長い夜を何度も何度も繰り返し「封神演義」を語って聞かせた。眠りについた夢の中で私は文学に目覚めた。しかしまたその中に出てくる鬼神に驚き、目覚めることもあった。
文学が私を最初に鍛えたのであった。後、私が学校に上がったとき、小学校から合陽県の中学校の最後まで、故郷のこのふるい土地をはなれることはなかった。かつて私は、学校の小さな図書館の蔵書をすべて読破しようと誓ったことがある。残念であったのは、書物に夢中になったため「白専」の仲間に入れられ、もとより政治審査第一の時代風潮の中で、大学に入学することができなかったことである。
農民の息子は、勉学の機会を逸してしまったら、当然祖先からの土地を耕すことになる。1964年高等学校の入試に失敗してから私は労働についた。と、同時に業余作家として創作を開始した。
1965年、私の第一作目の作品、新しい小説「拝師記」が出版された。しかし、創作の開始はまたその終わりでもあった。「文化大革命」がすべてを終わらせてしまった。
1968年になり、闘争の銃声のとどろく中、新兵を積み込んだ汽車に乗り込み、私はやっと束の間の安定を得て、また文学芸術作品の創作を開始したのである。
部隊に入った後、青海から新彊へと、また兵卒から副班長、班長、部隊長へと昇進する中で、私は創作の手を休めたことはなかった。1976年、新彊軍区話劇団に配属され、創作員を担当する段になって、やっと創作業に専念する機会を得た。
この後の創作には多幕話劇「草原珍珠」、「塔里木人」、「天神」、「天山深処」などがあり、その中でも「天山深処」は全国優秀脚本賞を受賞した。創作の中には一幕物もいくつかある。また、数十編の短編小説、及び一編の長編小説がある。短編小説の中の「天山深処大兵」は全国優秀短編小説賞、解放軍文芸賞を受賞した。
目下、私は武漢大学中国文学科作家班で学習しており、新たな成果と進展を望んでいる。

心理の深層に向かって

作家の最も素晴らしい宣言はその作品にあるべきであり、作家の文学的主張にあるべきではない。主張は はっきりした輪郭を持たないが、作品には説得力がある。というのはすべての文学的主張というものは文学に後から作り出されたある種の枠組みやモデルにすぎず、また文学に前もって多くの制約を課するものである。その制約はおのずと規範になり、規範に縛られた文学は発展を止めざるを得なり、やがては死滅せざるをえない。現実は、文学の永遠性と比較すると更に生き生きとしいるものである。というのは現実は永遠に発展するものであり、生命をもった生き物である。そこであらゆるジャンルの文学は発展せざるをえない。
文学は生命を探求するものであり、初期の伝統的な文学は、その外部に表現された模倣に重きをおいた。そして今日の文学は人間の心理の深層に向かって発展していくべきである。
というのは現代の人類は、伝統的な人間から現代人へと転化する歴史的な時期に直面しているのであるから。一切の発展、あるいは発展の目標に向かってひたすら努力を重ねてきた人民はすべてこのような苦痛を体験しているのであり、我が民族はこのような過程の中でさらに苦労を重ね苦しんだことも明らかである。民族の歴史は古く、文化も悠久なのであるから。
我々は伝統あるがゆえに傲慢な民族である。また、我々は過去を振り返る民族である。ゆったりと長い歴史と文化の伝統は我が民族の心理に厚く厚く沈殿している。これは我が民族の一切の美徳の源泉であり、また弱点の源泉でもある。我が民族の心理を深く掘り下げてみると、これこそ中国文学が避けることのできない運命なのである。このような意味から語った一切の伝統的、外在的叙述や模倣は一種の手段にすぎない。すべての美しく、人を感動させる物語は(精神に対する)肉体にすぎない。観念の根本的な変化や衝突する人間の精神に向き合っていると、すべての伝統的な描写は何と青白く無力であるのかは明らかである。
だから私は典型という考えに賛同しない。私は一人一人の心の奥底は、一つの世界、豊かで限りのない一つの世界であると思っている。
同様に、一つ一つの尽きせぬ無限の世界を表現することについていうと、すべての形式的な文学はすべて未知なのであり、実験可能なのである。まさに、すべての天才の作品が、伝統についていえば否定であるのと同じである。すべての形式の探求に大しては容認すべきであり、まずこのように言うべきではない。「いいえ、だめだ。」と。たとえそれが曖昧模糊としていてもだ。言葉の曖昧さ、形式の曖昧さ、心理探求の空虚。そして朦朧の曖昧さの中には往々にして無限の生命が、真理の閃きが含まれているものである。
そして、また真理の閃きはいつも作家の不確かな直角を拠り所に手に入れるものである。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作成:笹川恵美子

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