李季

Lǐ Jì
李季
りき

(1922-1980)

李季小伝:

 李季同志は1922年8月16日河南省唐河県の農民家庭に生まれた。中学校に半年通った後、1938年陝西省北部に駆けつけ革命に参加、抗日軍政大学に入り、同年11月中国共産党に入る。卒業後、1939年7月から42年9月まで太行山の敵後方基地で八路軍本部某中隊指導員、連絡参謀を務める。1942年冬太行山から陜西北部三辺に移り、小学校教師、県区行政幹部及び地方リトグラフ小型新聞の編集者を務める。その5、6年の戦闘生活で彼は様々な人に出会い、陜北の人々の思想、性格、言語及び好まれる文芸様式に精通し、そのことはその後の創作の堅固な基礎となった。

 1949年第1回全国文代会に参加後、1966年までに相次いで中南文聯編集出版部部長、『長江文芸』月刊編集長、玉門油礦党委員会宣伝部副部長、中国作家協会創作委員会副主任、中国作家協会蘭州分会主席、中国作家協会党組成員、『人民文学』副編集主幹を転任した。

1970年7月から1972年5月まで湖北咸寧文化部5・7幹部学校で労働に参加。1972年6月北京人民文学出版社に移り、雑誌『人民文学』の準備をした。1975年“4人組”の迫害を受け、石油工業部石油調査開発計画研究院副院長に転任する。1976年『詩刊』編集主幹となる。1978年『人民文学』編集主幹になり、中国作家協会復活の時準備作業を担当した。第4回全国文代会後、中国作家協会副主席、党グループ副書記、書記処常務書記に当選した。同時に『人民文学』編集主幹も兼ねた。第5回政治協商会議全国委員会委員でもあった。

 李季同志が自伝形式の『我的写作経歴(私の創作経歴)』のなかで触れた作品以外にも、1968年以降の日々、特に1976年“4人組”に迫害された後の3年余り、李季同志は文芸組織の仕事や編集作業が非常に忙しい中、病気をおしながら余暇を利用して創作を続けた。相次いで石油労働者をたたえる長編叙事詩『石油六歌』、叙事詩『荊江鉄女』、児童詩『葡萄園的伝説』、及び『馬蘭集』、『有一個李文元』,『郷音』等の散文や短編小説を発表し、映画『 、揺藍』に歌詞を書いた。1980年3月8日、李季同志の心臓が止まるその日の朝まで,三辺革命根拠地の人民を育てるため、心の底からの賛歌をおくり、散文『三辺在 里』を書いた。しかし突然の逝去により、ついに完成には至らなかった。

 李季同志はまた、長期にわたり自伝体長編小説の素材を蓄積しており、“文化大革命”を題材とした長編詩の構想を持ち,数十編の散文の題目を出した。“四人組”の迫害により心身に大きな打撃を受けたことで、上述の創作計画は予定通りに実現できなかった。

 30数年来李季同志は一人の八路軍兵士と末端幹部(農村の小学校教師と区、県の幹部)から、党の文学家に成長し、広範な石油労働者に“石油詩人”とたたえられた。彼が芸術上で上断の探索ができた源は、親愛なる党の養成、広範な群衆の支持、同世代の戦友たちの配慮である。もちろん、彼が常に生活と向き合い、生活を愛し、長い年月をかけ生活を掘り下げ、懸命に創作したことも、彼が創作の上で成果を上げた大きな要素だった。

 李季同志の書いた『我的写作経歴』は“文化大革命”中政治的な自由を剥奪された特殊な状況のもとで書いた“釈明資料”である。当時の条件と環境下では十分な思考や回顧は許されなかったが、彼が20年来歩んできた創作の道のりが書かれており、ある程度の史料的価値があると言える。(1981年4月)

(『中国現代作家伝略(下)』四川人民出版社、1983)
作品集・単行本

『王貴與李香香』海洋書屋(香港中国文史哲出版社再版)
『玉門詩抄』作家出版社
『菊花石』長江文芸出版社
『生活之詩』中国青年出版社
『五月端陽』文芸出版社

研究資料

『李季研究專集』海峡文藝出版社 1986.4

邦訳

『中国現代文学選集19 詩・民謡集』(訳) 平凡社

リンク

互動百科 李季

作成:飯塚美樹

Chinese Literature Site

error: Content is protected !!