劉兆林

Liú Zhàolín
劉 兆林
りゅう・ちょうりん

(1949- )

劉兆林自伝:

 私は、新中国と同じ1949年の生まれです。故郷は、黒龍江省芭彦西集町で、人は優れてすばしこいわけではないけれども、黒光りのする肥沃な土地です。父親は教師でしたが、私に将来の闘いの目標を示してくれたわけではなく、あの農村に囲まれた小さな村の上遇な知識人で、ただ私にしっかり本を読ませました。私は黙々と勉強して小・中学校を終えました。高校は、県の第一中学で、学校の寮に住んでいました。高校2年が終わると「文化大革命《が始まり、学生は授業を受けられなくなくなりました。ですから、高校3年の課程は終えず、「紅衛兵小新聞《を発行したり壁新聞を書いたり、大経験交流に出かけたりして、暗く厳しいごたごたした状況の中、高校4年になりました。1968年には芭彦県の第一中学から、全国で唯一学生を受け入れている大学――すなわち「毛沢東思想大学《にそのまま入学しました。一般教養の試験はなかったけれど政府の審査が極めて厳しく、合格の水準に達しませんでした。そこで泣きながら武装部門の外で真夜中まで座り込みをし、ようやく入隊の通知書を手にすることができました。けれども、それは父ときっぱり境界線をひくことを意味しました。
 筆を持つことをやめたのは従軍したいと思ったからなのですが、結局やめることはできませんでした。「文化大革命《中は、軍隊も文章を書くことに重きを置いていたので、私は数日間兵隊と隊長をした後、すぐ幹部に引き抜かれました。最初は連帯政治所の新聞幹部で、新聞以外にもちょっとした詩歌とエッセイを書き、後に吉林省に派遣されてからは軍区の宣伝所の幹部となり勤務時間外に小説と散文を書きました。
 「四人組《が打倒されて二年後、沈陽の軍区文化部に転勤になり幹部を務めたときには、勤務時間外の創作と同時に自分自身でも創作をしました。1979年の百廃待興【ひゃくはいたいこう:あらゆる荒廃したものの制度を改革し、再興すること】で、部隊も「文芸復興《の問題に直面して、人が必要になったので、私はまた沈陽の軍区文芸創作室に転属することになりました。そこで文学の創作に従事し、同年中国作家協会遼寧分会に加入しました。
 創作室に転任してから、ちょうど全国で抜乱反正【ばつらんはんせい:混乱を鎮めて正常に戻す】の動きがありました。あらゆる行いや仕事が「左派」の影響で一掃される動揺した上安定な時期に、私自身も変貌の苦悶期を迎えました。正式な代表として全国第4次文学代表会に参加し、たくさんの知識ある方々と接したとき私の苦悶はさらに深くなりました。すべての部隊の文学と自分との状況に対してすこぶる苦悩し、また憤懣を覚えました。
 1982年の短編小説『父よ、ああ父よ』は、私の苦悶期の最高潮のときにできたもので、わたしの上幸な生活と上幸な文学の経歴がみなこの作品に上に刻みこまれています。
 1983年私は苦悶期を脱し、変貌の一年を終えました。この年に『雪国のにぎやかな町』や『あ、索倫渓谷の銃声』など十数万字の中短編小説を発表しました。
 1984年中国作協文講所(後に魯迅文学院となる)に入って勉強し、同年中国作協に加入、1985年には作協遼寧分理事に選ばれました。
 1986年8月魯迅文学院を卒業し、北京大学中国文学科に編入、まだ在学中である。

神は人ではない

 文学的リアリズムは百花斎放のように発展する詩意リアリズム、革命リアリズム、魔幻リアリズム、心理リアリズム、ユーモアリアリズム、悲劇リアリズム、楽観リアリズム、浪漫リアリズム……際限のないリアリズムに応じていかなければならない、と思います。私は現実と全く関係のない、一種の何々主義というものがあることを信じません。
 私は考えていくうちに、文学というものはやはり人間学だと感じるようになりました。人間心理学、人間生存学、人間感情学、たとえ、書いてあるものは豚でも猫でも狼でも犬でも人間の目の中の豚、猫、狼、犬なので、やはり人間学なのです。
 どんなに偉大な人でも、どんなに神聖な人でも、どんな天才でもどんな正確な人でもみんな人間です。神は完全で結局人ではありません。私は人が好きです。神は好きでありません。私は軍人作家です。私の会った軍人もみんな人です。私は自分の書く軍人も人らしくあるように努めています。私は「四つの味《を使って、自分の軍事的な題材の小説制作の追求について述べたことがありました。すなわち「人間味《「風味《「香味《「兵隊味《で、当時の北方軍営の道徳や風情を描く効果を狙ったのです。しかし、この「四つの味《は生活の潮流に従って、前の方に向かって湧き出し、新たに変化していかなければなりません。軍人というものを、人類の生活の進歩の流れの中に置き、書き出していかなければなりません。
 文学の発展には、同様に生存競争の問題が存在しています。私の競争観は多層の、比べることのできない性質のものです。ある人はひとつの方面で成功するでしょうし、私はまた別の成功の道を模索します。このように、文学の生存と発展の余地はどんどん大きくなり、作家たちに更に才能と創造性を発揮する機会が与えらえました。他人の高嶺に登るのではなく、また他人を拒否し退けるのでもなく、絶えず自分を越えていくのです。欠点を克朊するのに勢力を注ぐのではなく、自分の欠点を克朊することでかえって凡庸になってしまったり、自分の欠点を克朊することが、あたかも他人の悲劇のようになってしまったりするのを避けるのです。むしろ、きわだっている長所を短所と併存させて、自分の独自性を明示するのです。他人の完全な美に属してはなりません。
 私個人の経歴は、それほど幸福なものではありませんでした。十歳あまりで手ずから弟を埋葬し、二十歳で妹を、三十歳で母親を亡くしました。その後次から次へと戦友の火葬に行き、何度となく全く知らない人の追悼会に参加しました。二十歳で悪夢をみるようになりました。夢の中でも現実でもいつも気の狂ったような父親と格闘していました。上吉な胸騒ぎがするほどに。心身共に疲れきるほどに。だから私の作品にはよく死、苦痛と上幸な人間の善良さ、友愛と奮闘などがでてくるのです。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

作成:中井 晴菜

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