白先勇

baixiany

Bái Xiānyǒng
白先勇
はく・せんゆう

 (1937.7.11-  )
白先勇小伝:

白先勇、かつてのペンネームは白黎、蕭雷、郁金など。回族で、原籍は江蘇省の南京。1937年7月11日に広西の桂林で生まれた。父親は国民党の高級将校白崇禧。幼年の頃は父親と一緒に重慶に住んでいた。7,8歳の時に児童結核を患い、4年後ようやく治った。コックの老央が彼に《説唐》を話して聞かせてくれた。これが彼にたとって初めての小説の手ほどきであり、老央は彼にとって初めての先生となる。抗日戦争勝利の後彼は相次いで上海、南京へと移り住んだ。かつては広州の培正小学校で勉強した。1948年に香港へ行き、九龍塘小学校、喇沙英文書院で勉強した。1952年台湾の進建国中学校へ通う。小学生の時は還珠楼主の《蜀山剣侠伝》に夢中になり、その後超恨水の《啼笑姻縁》、《斯人記》、徐訐の《風蕭蕭》、および巴金の《家》、《春》、《秋》などを熱心に読んだ。《三国志》、《水滸伝》、《西遊記》なども“分かったような分からないような”風に読んだ。小学5年生の時《紅楼夢》を読み始め、それは彼にとって“枕元に並ぶ小説”となった。初級中学3年の時李雅韻氏に第二の手ほどきを受けた。李雅韻氏は彼のために中国古典文学の門を開き、彼に始めて古き中国の偉大なる壮大さを垣間見させた。さらに彼の投稿を励まし《野風》で発表されることとなる。高校生になってだんだんと欧米の翻訳作品を好むようになり、例えば《ジェーン・エアー》、《風と共に去りぬ》、《傲慢と偏見》、《嵐ヶ丘》などを読んだ。1956年、高校を卒業すると台南成功大学の水利系に派遣されるが、自分の興味とはかけ離れていた。夏済安が編集、出版した《文学雑誌》に影響を受け、1957年再び台湾大学外国語学部に入学し、正式に西洋文学に触れ、ウィリアム・フォークナーとドストエフスキーの影響を深く受け、「彼ら二人の作品にはある種、世を嘆き人民を哀れむ、というキリストの精神があり、これこそが文学精神の境地である」と考えた。同時に中国古典文学、特に紅楼門に深く影響を受け、「これこそが現世界におけるこの上ない文学の至宝」であり、「良い小説が持つべき条件を言い尽くしている」といった。彼の小説の処女作品《金大奶奶》は1958年の《文学雑誌》で発表された。その中にはすでに《紅楼門》の影響がはっきりと現れている。同じ年陳若曦、欧陽子、王文興らと“南北社”を結成し1960年3月に《現代文学》創刊号を出版した。《月夢》と《玉卿嫂》の二編をそれぞれ二つのペンネームを用いて同時期に発表した。その後小説も多くこの本で発表し、《寂寞的十七歳》も後に収められた。この頃の小説は、主観的で幻想的な色彩が濃く、登場するのも奇妙な病的状態の人物が多い。性行為や同性愛についても多く描いている。1961年大学を卒業し1963年渡米しアイオワ大学の作家工作室で研究を重ねた。この時Perey Lubbockの《小説技巧》から技巧を重視する啓発を受け、さらに小説叙事観点の重要性に気づく。同時に自己の発見と回想を始め、教室では西洋文学を読み、授業以外では中国の歴史、政治、哲学、芸術に関する本や、たくさんの五四運動時代の小説などを大量に読んだ。1964年に《芝加哥之死》を発表し、陸続と《上摩天楼去》、《謫仙記》などを書き上げ、《紐約客》シリーズとした。それらの多くはアメリカに居留する中国の知識人が主人公で、その落ちぶれて異国を放浪する複雑な心情、寂寞、苦悶、困惑を表現している。1965年アイオワ大学で修士の学位を得る。その後もアメリカに留まりカリフォルニア州立大学のサンタバーバラ分校の教授となり中国言語文学課程の講義を行う。1965年春、《永遠的尹雪艶》を発表し“台北人”シリーズ小説の第一編となる。その後続々と《歳除》、《金大班的最後一夜》、《思旧賦》、《花轎栄記》、《游園驚夢》、《冬夜》等全部で14編を発表し、後にそれらを集め《台北人》として出版した。これは現代小説史における地位を打ち立てた傑作であると考えられてる。本の冒頭に次のような詩が載っている。

“朱雀 それは橋の辺りに咲く野花のようだ
烏衣の路地口では夕日が傾いている
昔 王謝の家の前に巣を作ったツバメが
普通の人の家に飛んで入ってきた”

これが全ての本の主題である。欧陽子による“《台北人》の研究分析と探索”に関する専門書は《王謝堂前的燕子》という題名で本の中の人物は全て、大陸の出身で、台湾を去った後にも“過去”を忘れることができず、現在に影響しており、それゆえに作品の主題は“今昔の比”、“精神と肉体の戦い”そして“生死のなぞ”これらの三位一体が含まれている。彼の作品は多く悲劇のムードが漂っていて、時代と関係しているものもあり、また作者の追求した芸術の境地でもある。“多くのすばらしい中国文学の特色は、すなわち作家の歴代の栄光と衰退に対する感傷でありそのような物寂しさが最高の境地である”“中国文学の一大特色は、歴代の興亡に対して感じる悲しみの追悼である。屈原の《離騒》から杜甫の《秋興八首》に至るまで、その中に表現された移り変わりの激しい人の世の一種の物寂しさ、これこそ正に中国文学の最高の境地であり、またすなわち《三国演義》の中の‘青山依旧在、幾度夕陽紅’の歴史観、および《紅楼門》の好了歌の中の‘今古将相在何方、荒家一堆草没了’の無常感でもある。”と彼は考えた。彼は自分の創作の中で最も好きな作品は《游園驚夢》で、最も好きな人物は《金大班的最後一夜》に登場する金大班である。1971年から暫くの間小説を発表しなかった。1977年《現代文学》が復刊し、長編小説《孽子》を第一期で連載を始め、後1984年にそれらを集めて出版した。1979年1月に短編小説《夜曲》を発表し、季季が編集した、書評図書目録版1979年の《短編小説選》に入選した。1986年《聯合文学》2月号で《骨灰》を発表し、その中でかつて理想のために忠誠を尽くしたが、結局落ちぶれてアメリカを漂流することになった当時の二人の老人の悲劇が描かれている。“私は中国の歴史の変換に多大な興味を抱いている。しかしこの類の題材を扱う作家は少ない。私はこの方面で小説を描き続けたい。”と彼は言っている。白先勇は“社会意識の非常に強い作家”であり、“生きているものすべての姿を風刺することに非常に長けている”、“技巧の上では中国古典小説と西洋小説をうまく融合させている”と考えられた。

作品集・単行本

『謫仙記』 短編小説集、 台北文星書店 1967.6
『游園驚夢』 短編小説集、台北仙人掌出版社、1968.10
『台北人』 短編小説集、 台北晨鐘出版社、1968.1
『寂寞的十七歳』 短編小説集、台北遠景出版社、 1971.4
『驀然回首』 散文集、 台北爾雅出版社、1978.9
『游園驚夢』 劇本、 台北遠景出版社、1982.8
『孽子』 長編小説、 台北遠景出版社、1983
『明星珈琲館』 散文集、 台北皇冠出版社、1984.6
『金大班的最後一夜』 劇本、 台北遠景出版社、1985.5
『玉卿嫂』 劇本、 台北遠景出版社、1985.5

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白先勇小说选
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白先勇自选集
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骨灰
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在我们的王国里
邦訳

『バナナボート,台湾文学への招待』 野間信幸〔ほか〕訳
JICC出版社、1991、定価1900円(本体1845円)[野間信幸訳「永遠の輝き」「赤いつつじ」所収]
『台北ストーリー』国書刊行会 1999.6.18[「最後の夜」山口守訳 収録]
『孽子』陳正醍/訳 国書刊行会 2006.4
『台北人』山口守/訳 国書刊行会 2008.3

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 作成:浅野和恵

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