陳紀瀅

Chén Jìyíng
陳紀瀅
ちん・きえい

(1908~1997)

小伝

 陳紀瀅、男、本名陳寄瀅、筆名瀅、生人、羈瀅、醜大哥、影影など、貫籍は河北安国、1928年3月20日生まれ、1949年8月來台、1997年5月22日世を去る、享年90歳。
 北京民国大学曁ハルピン法政大学卒業、米国カリフォルニア世界開明大学文学栄誉博士。記者、編集主任、特派員、郵滙局経理、第四回国民参政会参政員、立法委員、『中央日報』理事長、中国広播公司常務理事、中国文藝協会常務理事、第14回中国国民党評議委員を務める。
 1923年北京の『晨報』、『京報』、天津の『河北日報』に作品を発表し始める。1927年、孔羅孫らの文友と「蓓蕾文藝社」を組織し、「蓓蕾周刊」のタイトルで、『ハルピン国際協報』の付録として作品を掲載した。1932年には天津『大公報』の招きを受け、東北秘密通信員をつとめ、日本軍の東北における活動を暴露して、その報道界における地位を確立した。1935年には趙惜夢、于浣非、孔羅孫らと共同で『大光報』を創刊、前後して「大光別墅」「戦線」および『大公報』副刊「小公園」などの編集を行なった。1938年「中華全国文藝界抗敵協会」の理事となる。1949年第一期立法委員の身分で台湾に来て後、数年を経て、張道藩、王藍らと「中国文藝協会」を設立、常務理事長を25年にわたってつとめた。1950年には徐鍾珮、趙友培、耿修業、陸韓波と「重光文藝出版社」を発起し、前後して、中華文藝奨金委員会、中央日報社、教育部学術委員会、中山基金会、国軍新文藝補導会、中華民国筆会などの文化組織に参加した。教育部文学奨、華文文学終身成就奨を受賞した。
 陳紀瀅の創作ジャンルは文藝論述、小説、散文、伝記、旅行記を含み、なかでも、長篇小説はその著作の代表である。『荻村傳』は写実的手法で「荻村」が義和団、日本軍、共産軍の占領を経た50年間の変遷および主人公バカの常順の生涯を描き、「阿Qより更に生き生きと、よりリアルに大きな時代を代表する小人物」を表現しようと企図した。『華夏八年』は八年間の抗日の過程および共産党の攪乱による社会の動乱の画像、『赤池』は、抗戦勝利後四年間に東北が失われ、北平の范氏一族が衰退する過程を描き、陳紀瀅自ら「大陸が奪われる前の中国史に脚注をつけ、反共復国を誓った軍隊のために、進軍ラッパを吹く」ものと述べている。一連の抗戦題材の小説の描写を借りて、陳紀瀅は作品中の二元対立的描画によって、1950年代台湾の反共作品文学の典型を確立した。まさに陳芳明が言うように、「陳紀瀅の作品は、反共文学の模範である。それは彼が当時非常な権力を有していたというに留まらず、彼の創作方法も、そのまま後の反共文学作家の模倣対象となった。彼が発展させた小説モデルは、基本的に人間性の光明と暗黒の対比の上に打ち立てられている。」1960年代以降、その創作の核心は大幅に文藝運動の論述、旅行記、雑文およびジャーナリストの伝記に移って行き、ときには国劇の発展にも関心を向けた。
 創作以外に、「中国文藝協会」の核心人物として、陳紀瀅は常務理事を担当した期間に、官制文藝政策の実施を行ない、反共文学の創作ルートおよび作家群の養成基地を自ら開いた。彼が発起に参与した「重光文藝出版社」は主流文学の出版市場の舵を執る以外に、純文学作品出版の支持にも尽力した。反共文芸規制の推進と、文学創作をもって反共文藝理論を体現するという実践および文学作品の台湾反共文学に対する影響から見て、陳紀瀅の台湾文学反共文藝史における貢献は、十分礎を築く巨岩となった、と言える。

『陳紀瀅 台湾現当代作家研究資料彙編』

作品
参考書

『陳紀瀅 台湾現当代作家研究資料彙編』2014.12

 
 

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