Bǎiyáng
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(1920.3.7-2008.4.29) |
柏楊小伝:柏楊、初め郭立邦と名乗り、後に郭衣洞と改名。ペンネームを鄧克保という。河南輝県の人で、1920年3月7日開封で生まれる。相次いで、開封第4小学校、第6小学校、輝県第1小学校、輝県百泉中学校、開封高校などの学校で学ぶ。高校2年生の時に抗日戦争が勃発し、学校を辞めて軍隊に入り、河南の南陽、湖北、武昌などの地で、軍と政府幹部の訓練を受けた後、“三民主義青年団”に於いて職に就く。 1942年蘭州大学(今在の甘斎学院)法学部に合格するが、すぐまた休学する。1944年また復学し、やがて四川三台の国立東北大学政治学科へ移り、郭衣洞と改名する。 1946年、大学を卒業して、東北に赴き沈陽《東北青年日報》の社長、私立遼東学院副教授などの職に就く。1949年春、北平から青島、上海を経て、台湾へ行く。屏東農業学校、台湾工学院付属高級工業職業学校、南投草屯初中、台北樹林中学などの職に就き、その後また、成功大学副教授、独立して夕刊の副編集長、台湾芸術専門学校の教授などの職に就く。 1951年台湾『中華文芸賞金委員会』の原稿募集に応募し、そして小説を書き始める。はじめに『幸運的石頭』などの文章を、聶華苓が主な編集を務める『自由中国』文芸版に発表する。『天彊』、『異城』、『辯証的天花』など反共産党の内容の小説以外に、台湾社会の暗い面を明るみに出す『怒航』、『[キ争]扎』などの小説や、或いは『擴野』、『秘密』、『莎羅冷』などの恋愛小説を問わず、すべて現実を重視した、下層社会の些細な人物の生活を背景にしたものが多く、50年代の台湾人民の戦乱と貧窮を反映している。生きるために懸命にもがく悲劇や、喜怒哀楽の中に深い世の乱れを悲しみ、民の困窮を哀れむ情操を含んでいる。 彼は以下のように言っている。『私は主に社会の不平等について書いています。読者の方々に読んだ後、“なぜ主人公はこんなに苦しんだのだろう?”と考えてもらうことを期待するだけです。』このように、“悲しみ”や、“憤り”を考えてもらうことが彼の小説の基調になっている。 1960年台北で独立した夕刊で、柏楊というペンネームで『依夢閑話』というコラムを書き、これが彼が雑文を書く始まりとなる。翌年、台北公論報に『西窓随筆』というコラムを書き、その後次々と『玉雕集』などの第十集と、『神魂顛倒集』などの第十集を続々と出版する。柏楊の雑文の主題は人権と人道から離れておらず、社会と官界の暗黒面に対して、猛烈な摘発と攻撃をする。同時に中国数千年の伝統文化の中の病的状態の部分および、それが作り出した人間の性格の弱点に対して、鋭い批判を行う。冷ややかな嘲笑と辛辣な風刺の中で、また“より立派な人間になるように一層高度な要求をする”という深い感情を含んでいる。 彼は次のように言っている。『雑文という文学形式を選んだのは、現代の時空観念は、速度に対する要求が非常に高いからです。そして、文学領域中で、雑文は最もこの要求に適合するものです。距離的にも近く、対面しており、接触が速く、今の問題に直接的なのです。』 1968年1月3日彼が責任を負っている中華日報家庭版の『大力水手漫画』というコラムで、父と子が無人島で王国を建国し、総統の選挙に立つという漫画を掲載し、ついに“元首の侮辱”、“悪党とのつながり”、“スパイ容疑”などの罪により、同年3月4日投獄され、長期にわたり火焼島に監禁される。国内や海外の人士に多方面にわたって手を尽くして救援してもらい、1977年4月1日に釈放された。9年と26日間の牢獄生活中、『中国人史網』、『中国歴代帝王皇后親王主世系録』、『中国歴史年表』を書き上げた。釈放され、台北に戻った後“大陸問題研究センターの研究員として招聘され、また中国時報、台北時報にコラムを書くことを続ける。 1981年春、シンガポール、マレーシアを訪問し、戻って『新加坡共和国華文文学選集』5種を編集主幹を務め出版する。同年の夏アメリカのサンフランシスコへ赴き、世界詩人大会第5期年会に出席し、ロサンゼルス、ニューヨークなどで“中国の漬物がめ文化”を内容とした講演を行う。1982年春、タイのメコンデルタを訪問し、マレーシアを再度訪れ、帰国して報道関係の文学を書き上げる。同年夏、スペインのマドリードへ赴き、世界詩人大会第6期年会に出席し、合わせてドイツ、イタリア、サンマリノ、バチカン市国諸国を訪れる。この数年彼は獄中の著作や、新たに書いた『皇后の死』1,2,3集、『柏楊詩抄』及びその他の歴史著作を次々と出版している。すでに出版された彼が編集した『1965年中国文芸年鑑』、『1966年中国文芸年鑑』に続いて、1980年文芸年鑑をまた編集主幹を務めて出版している。1983年から彼は司馬光の『資治通鑑』全部を白話に訳すという志を立て、72冊を毎月1冊の速さで次々と出版する計画を立てている。 1984年彼はアメリカへ行ってアイオワ大学の国際作家の執筆計画に参加し、『醜陋的中国人』と題してアメリカの各地で公演し、その後それを収集して翌年出版している。10回再発行され、1986年台湾のベストセラーのトップテン入りをはたしている。1988年大陸の故郷に戻り、親族を探して『家園』の1冊を書き上げ、1989年5月に出版されている。 |
作品集・単行本『醜陋的中國人』 香港書城 、 1987 |
邦訳『醜い中国人』張良澤・宗像隆幸/訳 光文社 カッパブックス 1988.3.31/¥730 |
作成:垣屋真由美 |