羅廣斌

Luó Guǎngbīn
羅廣斌
ら・こうひん

(1924~1967)

羅廣斌小伝

作家、重慶市忠県出身。

幼少~青年期

 羅広斌は1924年に成都の封建地主の家に生まれる。祖父は忠県の貧農兼大工であった。父親は19歳の時に科挙に合格した。
 科挙制度が廃止となってからは成都東洋学堂に派遣され、羅広斌が生まれたときには四川大学の法学院で教鞭をとっていた。また母親は法政学校を卒業していた母親は高等裁判所に勤務している。そして二人とも国民党員であった。兄である羅広文は日本士官学校に入り、軍事を学んだ。帰国後は国民党軍に入隊し、国民党軍第七編練区司令官として17万人もの大軍を統率し、西南方面の防衛を担った。
 羅広斌の家は大いに繁栄しており、収入も豊かであった。毎年、洪雅県から千石、成都から百石の収入があり、そのほかにも不動産を3つ所有していた。幼少期の羅広斌は裕福な環境の中家族に溺愛され、なに不自由なく暮らした。

 1939年、空襲から逃れるために羅広斌は父母に従い、洪雅県に転居し、地元の中学校に入学した。羅広斌は文学、特にヨーロッバ古典小説を好んで読んだ。1940年、中学4期生であった羅広斌は同級生であった商人の娘である牟学蓮と恋に落ちた。彼はこの時まだ15歳であった。彼はハンガリーの作家であるユリオ・バギ(Julio Baghy)の小説で描写されていた清廉潔白な愛に感銘を受け、誠実な情愛を渇望していた。純粋な羅広斌は家族が自分を愛し、必ず理解を得られると思っていたが、家族は二人の恋愛に大きく反対した。彼の家族は封建的思想を有しており、自由を追求する羅広斌に対して、とりわけ母親は、「我が家の子は商人の娘婿になることは許されない。たとえ、私たちが許しても、世間は教育がなっていないと我が家を罵るだろう」と言った。 郭広斌と彼女の関係を断ち切るために、父親は洪雅の学校を辞めさせ、成都へ帰らせた。そして郭広斌の行動の一切を厳しく監視するようになった。
 1940年から1943年の間、郭広斌は家で囚人のように閉ざされた生活を送った。この3年は彼の生活への熱情や、自由への憧れを縛り、家族への不満や陳腐な思想への憤りを深まらせた。羅広斌は次第に封建的家庭と封建社会の悪辣な面や清朝封建勢力の青年に対する専横的な支配と抑圧に目を向けるようになった。恋愛をする中でぶつかった大きな障害は羅広斌の中に存在していた反逆因子を刺激し、障壁を消し去りたいと渇望させた。そして自由と平等を追及するために彼は家族と争うようになり、ついには父親と大喧嘩をするまでになった。
 羅広斌は家族との確執が大きくなっている一方で、自由への活路を見いだせなく、苦しんでいたちょうどその時、同郷である馬識途(西南連合大学の共産党地下組織責任者)に出会った。馬識途は彼の境遇に同情し、彼の反抗精神を支持した。そして真心をこめて「恋愛は青年の権利である。」と告げたのである。馬識途の助けの元、羅広斌は個人の恋愛と、家族への情の矛盾により深い理解を持ち、個性解放の追求、そして自分の有るべき権利を獲得するためには「息の詰まる家を抜け出し、新鮮な空気を吸い、新しい人生の座標を探す」以外道はないと悟ったのである。

 1944年初め、羅広斌は馬識途につき従って昆明の西南連合大学付属中学で学んだ。そこで彼は革命思想に陶酔し、「一二・一」学生運動の鍛錬をへて「血は憎しみの種である」ということを知った。これは彼の世界観と価値観に影響を与え、個性の解放と婚姻の自由の追求という狭い世界から抜け出し、人民の解放と民族の解放活動に身を投じることのきっかけとなった。西南連合大学付属中学での生活は羅広斌の人生の転換点であった。彼は家を抜け出し、革命の道を進み始め、革命のために終生奮闘するという理想と信念をそこで見つけた。

逮捕事件

 1948年9月10日、羅広斌は成都の家で逮捕された。彼が逮捕された原因に関しては諸説あり、その一つに冉益智(地下組織重慶市委員会副書記)に裏切られたという説がある。もう一つに羅広斌の母が慎重でなかったことなども挙げられる。羅広斌の母は彼が帰ったということを戸籍調査人に告げて助けを求め、それがスパイ知られて次の日に逮捕されたということである。さらに羅広斌の兄が彼の帰省を知り、彼が問題を起こすことを怖れ、羅広斌の身の安全を保証するという条件で、特殊警察のボスである徐遠挙に捕まえさせて監督して密告したという説もある。羅広斌が逮捕される原因を招いたのは、適切に述べれば、彼を裏切った地下組織の重慶市委員会書記劉国定から羅広斌の身辺情報を得たのであるが、他の点はよく分かっていない。その後で羅広文が徐遠挙に羅広斌の行方を教え、逮捕に繋がったということである。
 1948年3月1日、羅広斌が秀山に赴く前、重慶地下組織は長い時間をかけて考察をした。劉国志、江竹筠の紹介で羅広斌が入党し、9ヶ月が経っていた。その仕事は市の副書記冉益智が率いる学生運動関連のものであり、劉国志は羅広斌の入党自伝を冉益智に渡していた。一般的に、地下組織の規律では幹部は自身が率いる組織と人員の具体的な状況を互いに通達することはなかった。しかし、市書記である劉国定は、いくつもの組織へ関与していたため、冉益智のところで羅広斌の自伝を見て、彼が入党したことを知った。
 1948年4月、劉国定、冉益智が相次いで反逆で逮捕される中、互いに競うように川東地下組織を売り渡していった。劉国定は先に羅広斌の身分情報を提供し、冉益智も羅広斌が革命に参加した経緯を洗いざらい話した。西南長官公署二処の処長である徐遠挙は羅広斌が国民党第七編司令官羅広文の弟であると知り、羅広文を重慶市内の長官公署事務室に招いた。
 徐遠挙は羅広斌が革命に参加した経緯を羅広文に話した。あわせて羅広斌の生命を保証することを約束した。羅広文は弟が騒ぎを起こすことを危惧し、徐遠挙が羅広斌を逮捕し、監督指導することを明確に支持し、あわせて家族が羅広斌を溺愛しているが、彼はいうことに耳を貸さないため家族はどうすることもできない、彼は今成都の家にいるということを伝えた。徐遠挙は羅広斌が成都にいるという知らせを聞いたあと、すぐに重慶綏靖公署偵察科科長の左志良を1948年9月5日に重慶から成都へ派遣した。左志良は成都に到着してから数日間の偵察と綿密な計画を立て、1948年9月10日から羅広斌逮捕に向けて動き出した。
 1948年9月10日午前、1人の商人に扮した者が羅広斌の家を訪れた。彼は「馬」と署名された郵便物を持っており、羅広斌に直接手渡したいと言った。偶然にも羅広斌と馬識途は1948年9月10日頃に連絡を取り合う約束を交わしていた。このことは2人を除いては誰も知らなかったため、羅広斌は「馬」と署名された郵便物に対して全く疑念を抱かずに受け取りに行き、逮捕された。彼は逮捕された後、成都の取調室に10数日留置された。羅広斌の両親は刑務所に彼を見にきて、固執しないようなだめた。そして共産党は未来がないため、家に戻ることを望んだが、拒絶された。9月下旬、左志良は羅広斌を護送して成都から飛行機で重慶に行き、羅広斌を渣滓洞、白公館留置場に拘禁した。

文化大革命の始まり~最期

「重慶夕刊」に掲載された記事では、文革が始まった時、羅広斌等の作家は重慶市全体に向けて公開状を発表して闘争組を成立させ、造反を行なって市の文連の指導権を得た。これは市級の組織の中では最も早い造反であった。1966年8月末、市の文連の従業員である郭青等は造反派を成立させ、紅衛兵闘争組を立ち上げた。当時、羅広斌はこれを固く支持し、「何を恐れようか、最悪でも懲役、死ぬだけだ。全力で反革命を打ち砕こう」と言った。文革の極左思潮を排除し、私たちは羅広斌この言葉からぼんやりと当年の地下闘争時の熱血した青年たちの面影を見ることができる。ただこの身を捧げた決心が初めから誤った道を進んでいたということは、残念極まりない。文革中、上海の造反派「一月奪権」は中央から是認されていたため、各地で続々と行動が起こっていた。重慶の造反派の内部では権力闘争が起こっており、様々な派閥に分かれていた。
 1967年1月31日、矛盾はついに一触即発の事態へと発展した。権力奪取を支持する北航紅旗重慶駐留の紅衛兵は率先して羅広斌を批判する文章「羅広斌は革命造反派内部の時限爆弾だ」、「なぜ羅広斌を摘発しなければならないのか」などを打ち出し、その後も彼を非難する文章が次々と発表された。
 2派が明確に分裂した時、羅広斌はどちらか一方につくことを選択すると同時に、派閥争いに深く関わることとなった。1967年2月2日、重慶紅衛兵革命造反司令部は羅広斌逮捕の命令を出した。2月5日、建工学院紅衛兵は羅広斌を家から連行し、家財を差し押さえた。2月8日、権力を奪取した方の重慶市革連会が成立を宣言した。2月11日、市の文連等権力奪取に反対した組織は「反革命組織」「羅広斌を支える組織」であると宣言し、強制的に解散させた。
 1967年2月10日にはもう羅広斌が拘禁されているところで飛び降り自殺をしたという情報が出回った。その年に、羅広斌を看守していた者は、「羅広斌は本当に数十時間に及ぶ精神的苦痛に耐えられず、窓から飛び降りたのだ」と証言している。羅広斌はその時、学校に拘禁されていたのだが、取り調べを行なった者は、1949年11月27日にどうやって特殊警察に監獄から解放してもらえたのかを白状させようとした。5日の強制連行から9日の深夜まで、数十時間にもわたって、自白を強要し続けた。羅広斌はタバコを吸い、さらには清涼軟膏をタバコに塗って吸い続け、心身ともに疲労しきっていた。このように夜も眠らず、ついに10日の朝を迎えた。羅広斌は、たらいを持たされて、顔を洗うために3階の厠へ連れて行かれた。そして人の注意が外れている間に窓へ上り、「毛主席万歳」と高らかに叫んで飛び降りた。彼は飛び降りたあと、石の階段の上に落ち、その場で死亡した。(以上「百度」の記述を元に整理)

主な著作

『紅岩』1961年、楊益言との共著。中国青年出版社。

羅広斌と楊益言の実体験を元に、重慶解放前後での共産党地下革命闘争と獄中闘争における英雄的事績を著した長編小説である。なお紅岩は重慶の一地名であり、紅岩村は重慶市郊外の化龍橋近くの大有農場の中にある。また『紅岩』は数か国語に訳されて発行部数は千万冊に及び、中国で最も多く発行された作品となっている。

参考

『《紅岩》的故事』楊益言/著 花山文藝出版社 2000.8

 
作成:郭立人

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