蒋光慈

Jiǎng Guāngcí
蔣光慈
しょう・こうじ

(1901~1931)

蔣光慈小伝:

 蒋光慈、本名蒋如恒、又の名を蒋光赤という。中国現代文学史上、著名な革命作家である。

 1901年、蒋光慈は安徽省霍邱県南郷白塔畈の貧民の家庭に生まれた。原籍は安徽省六安県、祖父は赤貧のため飢饉を逃れ、霍邱県に落ち着いた。その後父親が白塔畈で米屋を営み、生活は落ち着いた。家庭には4人の兄弟姉妹があり、光慈だけが幼いころより聡明だったので、一人だけ学校に通わせてもらった。最初は近隣の河南省固始県志成小学校に学び、固始県中学に進学。新思潮の影響を受け、校長が貧しい生徒を虐げるのに反抗したため、除籍処分となった。そこで安徽省第五中学に転入、蕪湖市学生自治会副会長をつとめた。

 「五四」前夜、蒋光慈はすでに『新青年』などの進歩的雑誌や書籍を読んでいた。侠生(後侠僧と改める)を自称し、岳飛の「満江紅」や陸遊の愛国主義詩を朗誦するのを好んだ。「五四」運動が高潮するなか、彼は学生リーダーの身分で、大衆を率い、商会を攻撃し、外国製品を禁ずる活動を展開し、蕪湖地区における学生運動の序幕を切って落とした。それと同時に、蒋光赤の筆名で、文章を書き、『皖江日報』、『星期評論』、『新青年』などの進歩的新聞雑誌に投稿、愛国を宣伝し、売国に反対した。
ともに戦うなかで、蒋光慈は蕪湖で革命闘争を展開したことのある陳独秀、惲代英らと深い友情を結んだ。彼らの影響のもと、蒋光慈は上海へと革命の真理を求めた。陳独秀、陳望道、李漢俊で上海社会主義青年団に加入するとともに、「外国語学習班」でロシア語を学んだ。1921年5月、蒋光慈は劉少奇、任弼時、蕭勁光、韋素園、呉保蕚らとともに、党(中国共産主義小組?)からモスクワ労働大学に派遣された。1922年ソ連において、中国共産党の正式党員となった。ソビエト留学期間、ロシアの進歩的文学やソ連文学の薫陶をうけ、文学に対する興味と愛好の気持ちが激発し、創作を開始した。詩集『新夢』はソ連で書かれたものである。

 1924年夏、蒋光慈はモスクワから帰国した。即刻党の派遣により、故郷皖西、豫南の大別山区の建党に赴き、最初の党員グルーブを組織した。同年秋、今度は安徽省から上海へと移動、党立上海大学社会系の教員となりロシア語教員を兼任。同時に積極的に上海の労働運動に参加した。1925年、党の派遣により、張家口馮玉祥将軍のソビエト顧問の通訳を務める。この間、蒋光慈は開封の宋若瑜と知り合い、恋愛を経て1926年8月に結婚。しかし宋は結婚前から重篤な肺病を患い、同居一か月にして入院、同年11月に牯嶺で病死する。

 緊迫した革命活動において、蒋光慈は終始革命文学の建設に関心を払い、革命文学の理論の提唱と創作に力を尽くした。帰国してから2、3年のうちに、前後して、「無産階級革命と文化」「現代中国の文学界」、「現代中国社会と革命文學」などの論文を発表し、中篇小説「少年漂泊者」、詩集『哀中国』、通信集『記念碑』などの作品を出版した。

 1927年4月3日、すなわち「四・一二」反革命大虐殺の前夜、蒋光慈は瞿秋白から提供された資料と自分で見聞きした素材にもとづいて、上海労働者武装蜂起を反映した中篇小説「短褲党」を書き上げた。これらの作品は中国無産階級革命文文学の最初の成果となった。

 「四・一二」反革命政変の後、蒋光慈はいそぎ武漢に向かい、ほどなくして上海にもどった。1928年から、孟超、銭杏邨、楊邨人らと革命文学団体「太陽社」を結成、『太陽月刊』、『時代文藝』、『海風周報』、『新流月刊』などの革命文学刊行物を主編、積極的に革命文学を宣伝鼓吹した。同時に長詩『哭訴』、中篇小説『野祭』、『菊芬』、『最後的微笑』、『麗莎的哀怨』などを出版し、無産階級革命文学の建設に積極的な貢献をした。

 1929年8月下旬、蒋光慈は上海を離れ、日本の東京で病気療養したが、休養期間も仕事は続けた。在東京の楼建南、馮憲章、森堡らと「太陽社東京支社」を設立する一方、ソ連のリベジンスキーの小説『一週間』を訳し終え、長篇小説『衝出雲圍的月亮』を書き上げ、日記『異邦與故国』を書き、同年12月に帰国した。1930年、重病を抱えながらも、積極的に「左聯」の活動に従事し、『拓荒者』の主編をつとめ、『中国新興文学短篇創作選』(一、二集)の編集、出版を行い、最後の長篇小説『咆哮了的土地』(後に『田野的風』と改題)を書き上げ、創作における新しい成果を得た。同年、田漢の紹介で、南国社の俳優呉似鴻と恋愛のうえ、2月に結婚。

 1931年春より病状が悪化。6月に入院治療を行う。医師の診断は腸結核、肺病のセカンドステージであった。国民党特 務の追及を逃れるため、入院時陳資川の偽名を使った。結局、病状が重篤となり、8月31日、この世に別れを告げた。遺骸は上海公墓777号に蒋資川の名で葬られた。

 蒋光慈の晩年は、李立三の左翼冒険主義のやり方に不満で、「緊急集会」やデモ行進などに参加したくない、と表明、党組織に書信で党からの離脱を請求した。1930年10月に、蒋光慈は党籍剥奪の処分を受けている。しかしそのことによって政治的に意気消沈することはなかった。残されたわずかな年月に、病と貧困という逆境にありながら、『咆哮了的土地』を完成し、また同時期の「左聯」五烈士の逮捕にも心を寄せ、救援活動に積極的に参加しており、生命の尽きようとする間際にも、病床を見舞いに来た者にまで紅軍の戦況を尋ねた。自らの生涯を革命と革命文学事業に捧げたのである。

『蒋光慈文集』前言 1981.12

著書

『蔣光慈選集』開明書店 1951.7初版1951.12二版
『蒋光慈文集 第一巻』上海文藝出版社 1982.10
『蒋光慈文集 第二巻』上海文藝出版社 1983.6
『蒋光慈文集 第三巻』上海文藝出版社 1985.6

 
研究資料

『蒋光慈傳』呉騰鳳/著 安徽人民出版社 1982.1
『蒋光慈研究資料』中国現代文学史資料滙編(乙種)方銘/編 寧夏人民出版社 1983.7

作成:青野繁治

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