程樹榛

Chéng Shùzhēn
程樹榛
てい・じゅしん

(1934- )

程樹榛自伝:

1934年7月、私は江蘇省[丕β]県程家墟の豪族の家に生まれた。祖父は清朝時代の秀才であったが、父の代になって家は傾き、農業を生業とした。3歳のとき父が亡くなり、母と二人で身をよせあって生活した。抗日戦争の砲火のもとで私は小学校を卒業し、その後江蘇省立徐州中学校を卒業した。
私は子供の頃から文学を好んだ。最初の作品は1951年に上海の『青年報』に発表した。題吊は「幸福をどうやって手に入れたか《であった。翌年、もう一編、旧社会の童養[女息]から新中国の医務工作者になった人物に取材した報告文学が、建国三周年記念募集作品として同じ新聞に掲載された。
1953年、天津大学機械系に合格した。豊富多彩な大学生活は、私の文学に対する熱情に再び火をつけた。私は志を同じくする学友と天津大学の詩社、文学社を設立した。しばしば雑誌に短い詩文を発表している。大学を卒業する前夜、私は長篇小説『大学時代』の初稿を完成した。しかし私の政治的風雲の急激な変化によって、23歳のときに書いたこの作品は、23年後の1980年になって、ようやく人民文学出版社から出版されたのである。
1957年に大学を卒業した私は黒龍江富拉爾基重型機械工場で技術員となった。忙しい仕事の余暇に、熱い仕事の触発をうけて、私は再び大量の詩や散文、短編小説を書き、全国の新聞雑誌に発表するようになった。そのうち比較的反響の高かったものに、「幸福頌《「梅嶺《「草原上的鋼鉄之母《「路《「紅色之岸《「辺城車站《などがある。この時期、私は長篇小説『鋼鉄巨人』も完成している。これは1966年に発表して後、長春電影製片廠で映画化され、全国で放映された。
10年の災害は悪夢であった。しかし悪夢が去ると春の朝であり、その新しい空気を吸いながら、私は失われた青春を取り戻した。泉のごとき激情がペン先にあふれ、その前後には全部で200万字の作品を書いたのであった。
生活は私に手厚い待遇をあたえた。1979年、私が1957年にうけた上公正な処分が取り消されると、工程師に昇進したり、作家協会に加入したり、市の人民代表に選ばれたりといったことが相次いだ。さらに、工場の党委員会宣伝部副部長や企業改革弁公室副主任となって、企業改革に直接タッチしたりしたことは、私の現実生活に対する深い感銘を与えるとともに、豊富な創作の題材を獲得させた。
1983年、私は朝夕を26年間過ごした工場を去り、黒龍江作家協会で専業作家となった。同年末、省作家協会第二次代表大会で、省作家協会副主席に選ばれた。1984年の末には、省文聯の副主席にも選ばれた。同じ時、中国作家協会第4次代表大会では、中国作家協会理事に選出された。現在は、省文聯常駐副主席として、作家協会、戯劇家協会の指導工作の責任を負いつつ、文学創作も継続している。目下、大長篇小説『遥遠的北方』の創作に着手している。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)

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作成:青野繁治

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