杜鵬程

Dù Pēngchéng
杜鵬程
と・ほうてい

(1921.5.5~1991.10.26)

杜鵬程小伝

 本名は杜紅喜、1921年農暦3月28日(新暦では、4月28日とする資料と5月5日とする資料がある)に、陝西省韓城県蘇村の貧農の家庭に生まれるる父親杜保城は村の雑役夫であったが、杜鵬程が3歳の時に病死、母親の杜趙氏が生活を担い、息子を私塾に通わせるために、財産の田畑や家を売り払った、という。1929年の旱魃で死体が野にあふれるなか、母は杜鵬程をキリスト教会の孤児院に連れて行った。11歳のとき、母がなんとか彼を私塾続けるようにさせるが、一年ほど勉強しただけで、生活の困窮から韓城県のある商店に見習いに入った。幼年時代のこの苦労を、いつまでも忘れられない、と杜鵬程は語る。
 見習い時代に『三国演義』『水滸伝』や流行の武侠小説を読んだが、人生に対する疑問を解決してくれる本はなかった。1934年から36年にかけて、推薦を受け、家から十数キロ離れた郷村学校に入り、働きながら学べるようになった。ここで進歩的な教師の教えの下、半封建反植民地中国の歴史を学び、五四以来の新文学に触れ、紅軍の革命的事績を目の当たりにすることができた。
 1937年、抗日戦争が始まると、杜鵬程は中国共産党の外郭組織「中華民族解放先鋒隊」に参加、抗日救亡活動の積極分子となった。ほどなく韓城地下党が創設した、抗日宣伝、マルクス主義宣伝を趣旨とする「少年書報社」で新聞配達を担当、多くの進歩的書籍やマルクス主義の論著を読み、革命の道理を少なからず理解した。1938年初夏、共産党員だった先生の紹介で、延安への道を歩みだした。
 延安につくと、まず八路軍随営学校に入れられて学び、その後地方幹部を養成するための魯迅師範学校に送られた。同年修了後、陝甘寧辺区延川県の農村に配属され、実際の工作に当たった。3年余り農村で実地工作で鍛えあげられ、杜鵬程は陝北農民に対して深く階級的感情を抱くようになり、彼らの生活や言葉を理解するようになった。
 1942年延安に呼び戻され、延安大学に入学、大生産運動、整風運動に参加、マルクス主義の書籍や魯迅、郭沫若の作品、外国文学の作品などを読んだ。しかしこのころの興味は寧ろ哲学と歴史学にあった。1944年、杜鵬程は延安辺区の被服工場に配属され基層幹部となった。専門職として政治文化教育を行う以外に、紅軍、八路軍の老幹部や兵士のために小伝を書いてやった。それを通じて彼は革命にまつわる物語をたくさん知ることとなった。そこで興味が社会方面から文学に移ってきて、文藝創作に従事する考えが芽生えた。国内国外の古典的名著を読む一方で、意識的に人物を観察し、生活の題材を蓄積し、文章のけいこをして、延安の各種忱分雑誌に通信報告を投稿し、散文、短篇小説、ヤンコ劇を執筆した。1946年4月から『解放日報』に杜鵬程の書いた通信や散文が掲載されている。1945年10月には中国共産党に加入している。
 1947年、『辺区群衆報』の配属となる。3月、延安防衛線の幕が切って落とされた。杜鵬程は聞捷など新聞社の同僚と北に撤退、従軍記者として、王震将軍率いる二縦隊独立旅第十団に派遣され、さらに同団の二営六連に腰を据えた。後の『保衛延安』はこの英雄的連隊の事績を基礎としている。
 1949年杜鵬程は軍について新疆へ挺進し、パミール高原に到達。蘭州に進軍する途中、西北農学院附属中学の女子学生張文斌と知り合い、新疆で結婚した。縦隊は増大化して、第一兵団となっており、杜鵬程は兵団政治部副部長兼新華社第一野戦分社主編に任命され、カシュガルに駐留した。生活は安定に向かったが、杜鵬程は延安防衛線中に過ごした非凡な歳月を書き残さなければ、党と人民に申し訳ない、と思うようになり、『保衛延安』の創作に着手した。困難と数度にわたる書き直しを経て、1954年にこの大作を完成した。
 『保衛延安』出版後、杜鵬程は新聞社を離れ、西安作家協会の専業作家となった。杜鵬程は創作に深い生活体験が欠かせないことを身をもって感じていたので、鉄道建設現場に入ることにし、十数年にわたり、第六工程局で生活し、工程処副書記、宣伝部副部長、幹部審査弁公室主任、基層工会主席などを兼任した。その後前後して、黎湛線、宝成線、三門峡、隴海路、西韓路、成昆線、大慶油田などの重要な建設工事現場を訪ねた。1958年には西北の農村と東ヨーロッパの国々を数か月かけて歴訪した。
 1957年、中篇小説『在和平的日子里』を出版。1960年に出版した『速写集』は、50年代の主要な散文、特写、消息、通信、報告文学、文学雑談など22編を収めている。1962年には、「延安人」「工地之夜」「夜走霊官峡」など11の短篇小説を収めた小説集『年青的朋友』を出版した。そのほか、社会主義的現実を描いた長篇小説『太平年月』も執筆したが、文革の影響やさまざまな妨害で出版に至っていない。
 文化大革命中は、林彪、「四人組」の残酷な迫害を受けた。1963年には『保衛延安』が禁書として封印され、1964年に指令解除となる。1966年、西安作家協会に戻ってまもなく、打撃を受け、長期にわたって収監された。
 1977年『延河』誌に、短篇の新作「歴史的脚歩声」を発表、修訂整理を経て、1977年末および1979年初めに、それぞれ中短篇小説集『光輝的里程』、長篇小説『保衛延安』を重印した。1979年7月、第四次文学藝術工作者代表大会において、中国作家協会理事に選任された。1980年4月巴金らと日本を訪問。

(『杜鵬程研究專集』福建人民出版社 1983.12)

著書

『保衛延安』人民文学出版社 1977

研究資料

『杜鵬程研究專集』福建人民出版社 1983.12

作成:青野繁治

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