劉以鬯

Liú Yǐchàng
劉以鬯
りゅう・いちょう

(1918.12.7~2018.6.8)

劉以鬯自伝

 私の本名は劉同繹、字は昌年、1918年12月7日(農暦11月初5日)、上海に生まれる。原籍は浙江鎮海である。
 7歳から学校に通い、閘北三育小学校卒業後、南市の大同大学附属中学に入学。初級中学ではバスケットボールをするのを好み、新文学の作品を読むのも好きだったので、「無名文藝会」や「狂流文藝会」に入って著述を学んだ。高級中学時、抗日救亡運動に呼応し、よく授業をボイコットし、よくデモ行進に参加した。1937年に抗日戦争が始まると、聖ヨハネス大学に入学、一年生二年生時は市区の大陸商場で授業を受けた。三、四年時は梵王渡校内で授業を受けた。1941年夏に大学を卒業し、その冬、太平洋戦争が勃発し、私は孤島になって沈んだ上海を後に、重慶へと向かった。重慶に行っても仕事はみつからず、親戚が開設した鉄工所の中に寄宿した。鉄工所に数か月住んでから、偶然、父の友人の曽通一先生をみかける機会があった。曽先生は『国民公報』の社長で、私が仕事を探していると知ると、『国民公報』の副刊の編集人にしてくれた。数か月後、聖ヨハネス大学の同級生楊君が『掃蕩報』のラジオニュース聞き取りの仕事を紹介してくれた。1944年、『掃蕩報』副刊の編集人陸晶清が英国に行くことになり、私は副刊の編集を兼任することになった。戦後、『掃蕩報』は『和平日報』と改名し、私は『和平日報』の通信主任兼副刊編集人となった。
 1945年冬、私は重慶から上海に戻り、『和平日報』主筆の名義で副刊編集を行なったが、その後『和平日報』を離れ、懐正文化社を創設した。1948年冬、金融が大混乱し、懐正文化社が半休止状態となったため、私は上海を離れ、香港に移った。香港ではしばらく過ごしてから、友人の紹介で『香港時報』に入り、副刊の編集を担当した。1951年、『星島日報』執行編集人及び『西点』雑誌の主編に就任。1952年に香港からシンガポールに移動、『益世報』主筆兼副刊編集人に就任。『益世報』は数か月発行したが、大赤字のため停刊。1953年、『聯邦日報』の招きに応じ、クアラルンプールに行き、同誌の編集長を務めた。
 1957年、シンガポール経由で香港に戻る。『香港時報』に入り直し、副刊の編集に従事。賃金が安かったので、やむを得ず、流行商品(流行小説)を大量生産した。香港で売文生活をするには、とにかく大量に書かねばならない。心血を注いだ作品でも、かえって原稿料を稼ぐのが難しかった。私の作品は数は少なくないが、急場しのぎの粗製乱造で、細緻さに欠ける。比較的まじめに書いたのは、「酒徒」「寺内」「一九九七」と「春雨」である。ほかに新文学についての文章も書いており、『端木蕻良論』、『看樹看林』、『短綆集』などがある。私にとっては、翻訳の仕事は、流行小説と同じように生活のための手段であり、比較的高い原稿料を稼ぐために、私は今日世界出版社のために、ジョイス・キャロル・オーツの作品『人間楽園A Garden of Earthly Delights』を翻訳、青島出版社のためには、ジャクリーヌ・スーザンの『娃娃谷 Valley of the Dolls』を訳し、遠景出版公司の為にはアイザック・バシェヴィス・シンガーの『荘園』を訳した。『人間楽園』は出版社の字数制限があったので、前半は全訳、後半は抄訳となっている。
 40数年来、ほとんど副刊の編集の仕事をしてきた。今は『香港文学』の編集以外に、『快報』で副刊の『快活林』と『快趣』の編集をし、同時に『星島晩報』のために文藝週刊『大会堂』の編集をしている。
 香港、シンガポール、クアラルンプールなどの作文コンクールの審査委員をつとめた。

(『劉以鬯研究專集』四川大学出版社)

著書
 
研究資料

『中国当代文学研究資料 劉以鬯研究專集』四川大学出版社 1987.9

作成:青野繁治

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