林微音

 

Lín Wēiyīn
林微音
りん・びおん

(1899~1982)

林微音小伝

 上海の銀行職員。1932年、親友の邵洵美を助けるために一度は新月書店の支配人になった。1933年「緑社」の創立に関与し、月刊『詩篇』を創刊、唯美主義、「芸術のための人生」を唱えたが、彼自身の作品はそれほど唯美主義の風格を体現しなかった。1933年、林微音は魯迅と論争を始め、魯迅に「討伐軍中もっとも低能な人」などと罵られた。女性詩人林徽因(本名林徽音)は彼と名前が似ていたため改名を表明せざるを得なくなった。林微音は汪精衛政府の特務機関から40元の手当てを受け取って、侵略者のために『南風』という雑誌を上海商務印書館から発行し、漢奸文化のための功労者となった。後にアヘン中毒となり、1949年以降職を失った。

Baidu百度サイトより

林微音という人

施蟄存

 1928年のある酷暑の朝、戴望舒と杜衡は葛嶺の山頂の初陽台に登った。すると亭子のところで青年が一人紙屑を燃やしている。好奇心から、近づいて声をかけた。するとこの青年は上海の人で、西湖観光のため杭州に来ていること、昭慶寺に泊っていることなどがわかった。焼いていたのは、彼の作品原稿で、いずれも採用してくれる新聞、雑誌がなく、送り返されてきたものだった。
 この赤鼻の青年は、林という姓で、名は微音、詩人であるが、銀行に勤めていた。
 上海に戻ったとき彼らはすでに友達になっており、私もついでに知り合いとなった。我々が雑誌を出したり、出版社をやったりしたとき、林微音はよくやってきた。我々も彼の詩文を発表してやったものである。しかし彼は水沫社の同人ではなかった。彼は別の3、4人からなる文学の小グループに属していた。彼の文芸仲間は朱維基(*1)と芳信で、彼ら3人のリーダーが夏莱蒂である。彼等は『緑』という小雑誌を出し、彼らの集団の呼称は「緑社」であったと思われる。
 夏莱蒂の本名は莱騠で、松江の人、名医夏仲方の実の弟である。彼は郁達夫を崇拝し、郁達夫の頽廃をそっくりそのまま真似ていた。かつて郁達夫の家の中二階に数ヶ月住んでいたことがあり、常に裸で酒によって騒ぐので、王映霞に出て行けと言われ、やむなく退散したという。
 芳信の本名を私は知らない。職業もわからない。彼の妻芳子はダンサーであった。1930年には彼ら夫婦は四川北路と海寧路の交差するところに、ダンス学校を開設した。現在の凱福飯店の二階に当たる。
 朱維基は工部局の通訳であった。
 彼ら4人はいずれも詩を書き、上海新文学史上、短い期間ではあるが活動した唯美派ないし頽廃派と言えよう。
 林微音は我々の水沫書店のために翻訳を買って出た。我々はそこで彼に莫理思W.Morrisの『虚無郷消息News from Nowhere』の翻訳を頼んだ。訳稿が組版されたのち、私が校正を担当したのであるが、誤訳が多く、中国語の文章もよくないことがわかった。それ以後は彼に翻訳を頼むのがためらわれた。外国文学をいろいろ訳していたとはいえ、恐らく4人のなかで英語のレベルに問題がなかったのは、朱維基だけである。
 1931年の上海事変以後、林微音の行動が次第におかしくなってきた。夏は彼はよく黒いシルクの半袖シャツと黒ズボンで町を歩いた。ときには胸のポケットから白いハンカチがのぞいており、西洋の服装に似せていた。時にはボタンの穴に白い蘭の花を挿していることもあった。ある晩、彼は静かな通りでインド人の巡査に捕まえられた。彼を「ゲイ」だと思ったのである。彼の服装は、上海の「白人ゲイ」が着る服装だったのである。
 1933年、私は玉仏寺付近に住み、彼は静安寺に住んでいた。全部で7回か8回あったのだが、夜になって彼が私の家を訪ねてきて、顔を見るや否や、来意を説明し、2、3元金を貸して欲しいというのである。最初、どうしてそこまで貧乏になったのかと驚いたのだが、あとでわかったのは、彼がアヘンを吸い始めて、奥さんにわからないように「燕の巣」(アヘン窟のこと)に入ろうと必死だったのであった。
 1937年から上海の解放まで、私は彼を見かけなかった。1951年に何度か会ったが、彼は仕事がなく、私に英語教師の仕事や翻訳の仕事を紹介してくれと言ってきたが、私には彼を援助する手だてがなかった。その後彼はしばしば市役所に仕事をもらいに行ったらしいが、最後には第一看守所に拘留されたという。罪名は「道理もなく騒いだ」というものである。それ以後、私は彼の行方を知らない。
 林微音と林徽音(*2)はよく混同される。1月19日の『文匯読書週報』に陳学勇の文章が載って、二人の林を区別し、楊義の『現代中国小説史』の誤りを正している。しかしこの文章にも、上海の林微音が「『語絲』に原稿を載せた」と書いているのは問題がある。北京で出版された『語絲』に、林微音の文章が載るはずがない。上海で出版された『語絲』なら林微音の文章が載るかも知れない。しかし先ず二種類の『語絲』を区別しなければなるまい。

1991.5

【訳注】
1)朱維基(1904-1971) 上海の人。上海滬江大学で学ぶ。1927年外国詩歌の翻訳と教学の仕事に従事。1933年英国詩人ミルトンの『失楽園』及びイタリア人ダンテの『神曲』の翻訳に力を注いだ。1938年蒋錫金らと上海で詩の雑誌『行列』を共同編集出版し、少なからざる抗日の詩を創作、それは後に『世紀の子供』に結実した。1941年上海で、日本の侵略者に逮捕投獄される。1943年出獄後、中国藝術学院の教員となり、英国詩歌及び西洋演劇史の翻訳と研究の仕事に従事した。1946年蘇北の解放区へ行き、華中建設大学、華東大学で教鞭を執る。1950年青島大学教授、1951年上海へ行き、華東文化部研究室で働く。1953年上海新文藝出版社の編集担当、同年、中国人民志願軍に参加し、通訳の仕事をした。1954年帰国後も詩歌の翻訳と研究の仕事に従事。
2)林徽音 前出。女性作家林徽因の本名。

(『砂の上の足跡』施蟄存/著 青野繁治/訳注 大阪外国語大学学術研究双書 1999年)

著書

『虚無郷消息』莫理思/著 林微音/訳 水沫書店 1930
『深夜漫歩 林微音集』海派小品集叢 許道明・馮金牛/選編 漢語大詞典出版社 1996.4

研究資料
 
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百度

作成:青野繁治

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